3.「真理とは何か」を模索し始める

 

キリスト教を学び始める

対人恐怖の症状があったり、人生を重苦しく感じていたことが影響して、高校に入った頃から、

 

  • なぜ、生きなければならないのか
  • 生きるとは何か、人生とは何か
  • 真理とは何か

 

そういった、哲学的なことを考え、その答えを求めて、模索するようになります。

 

そんな折、クリスチャンだった祖母が亡くなり、
キリスト教のお葬式に参加したことで、
キリスト教に強い関心が芽生えました。

 

神父さんが素晴らしい人格者だったこと、
また、お葬式全般がとても暖かい雰囲気だったことで、キリスト教に惹かれたのです。

 

ちょうど同時期に、マザー・テレサを知り、強い感銘を受けます。

 

マザー・テレサのように、無私の精神で、人のために生きたい。

生きるとは、そういうことではないか。

自分が追い求める「真理」は、キリスト教の教えの中にあるのではないか。

 

そのように考え、キリスト教を学び始めました。

 

クリスチャンの伯母に頼んで、ミサに連れて行ってもらい、
聖書を一生懸命読み、
敬虔なクリスチャンになろうと頑張りました。

 

ボランティア活動も熱心に行いました。

 

この頃は、「お寺で出家」ではなく、
修道院に入って修行することを、漠然と夢見ていました。

 

でも・・・

 

 

キリスト教の教えが理解できない!!

マザー・テレサの生き方には強く惹かれるし、

神父さんをはじめ、その他のクリスチャンの方々に尊敬の気持ちを持つのに、

肝心の、キリスト教の教えには、まったく賛同できませんでした。

 

というか、

 

意味が分からない💦

 

 

聖書を読んでも、まったく心に響きません。

それどころか、

 

  • 全知全能の神が、なぜ人間という失敗作を生み出すのだろう?
    失敗するなら、そもそも全知全能ではないはず。 
  • 神はよく怒るけど、全知全能の存在が、怒りなんて持つものなの?
    怒りがある時点で、全知全能ではないのでは。
     
  • 人間の罪の報いのために、神の子であるイエスが死ぬなんて、意味不明だし、それを押しつけられても、重苦しいよ。。。

 

こんなことを考えていました。

 

 

でも、こんな考えが出てくることは、信仰心が足りないからだと思い、無理に

「キリスト教を信じなければ!」

と強迫観念のように考えてもいました。

 

また、マザーテレサのような、無私の精神に憧れながら、

現実には真逆の自己中心的な自分がいて、

そのギャップにも苦しみました。

 

そんな自己中心的な自分を、

「なんてダメな人間なんだ。恥ずかしい」

と自己否定するようになります。

 

 

更に、高校生の頃が一番、対人恐怖が強く、

キリスト教があろうが無かろうが、人生の苦しみはある。

 

 

そんなことが重なって、社会人になる頃には、キリスト教から離れるようになります。

 

自分には無理だと。合っていないと。

 

 

キリスト教から離れても、依然として

人生とは・真理とは何か。何のために生きているのか

という疑問は残ったまま。

 

この疑問を抱えたまま、もがいていきます。