20.タイ「スカトー寺」での瞑想修行4
食事が終わると、夕方6時からの読経&説法タイムまで、自由時間となり、
各々、瞑想修行を行います。
私は、歩行瞑想をメインに、時々、手動瞑想を取り入れながら、
3-4時間続けて瞑想をする。
すると、このくらいで具合が悪くなるので、しばらく壁にもたれかかって休む、
というペースで行っていました。
具合が悪い時は、クティに戻って横になりたかったのですが、クティが嫌すぎて、
夜寝るときと、シャワーを浴びるなどの用事がある時以外は、
近づかないようにしていました。
瞑想をしていても、クティのことを想い出してしまうので、
必死に身体の感覚に意識を向けていました。
今でしたら、
- 「嫌だ」という嫌悪感
- 嫌悪感の元となる「認識作用」
- 「あんなクティであって欲しくない、あそこに居たくない、自分の理想通りのクティが欲しい」という欲
などを、ただ、あるがまま観察し、手ばなすのですが、
当時は、そんなことは思いもよらず、
ただ、クティのことを考え続ける思考から離れたくて、
必死に身体の感覚に、意識を向け続けました。
これは、
「感情・思考・欲」といったものを、ムリヤリ押し殺す
ことにもなるので、正しい瞑想法とは言えません。
つまり、瞑想している間は心は落ち着くのですが、欲は残ったままなので、
瞑想から離れ、クティのことを考えたら、また、嫌悪感が出てしまうのです。
ただ、そんな瞑想でも、効果は出るものです。
次第に思考が静まっていき、瞑想をしている間は、
「まあ、良いか」
と、クティのことを放っておけるようになってきました。
瞑想している間、クティは存在していないのに、
思考することで、あたかもクティが目の前にあるかのように感じてしまう。
そんな錯覚や、
「やっぱり、思考によって苦しみは生まれるんだなあ」
ということを、おぼろげに、感じ始めたように思います。