49.再び「全ての現象に実体は無い」を体感
「5つのこと」が分かって約3週間。
心の移り変わりを、ただ、観察していました。
その間、大きめの地震がありました。
そんな時も、ただ、心の動きを観察していました。
- 禅定のような、深い深い静けさ、心の安定さを味わっても、また心は移り変わる。
- 「瞑想に飽きたなあ」という感覚が生じても、観察していれば、その飽きた感覚は消え去る。
- 嫌だという怒りの感情が生じても、消えて心は穏やかになり、
- 嬉しさや喜びの感情も、そのうち味気ない感覚に変化する。
- 肉体も、歩行瞑想が疲れて座ると、楽な感覚が生じるけれど、座り続けると、足やお尻が痛くなって、また身体を動かしたくなる。
- 身体を横たえると楽になるが、寝続けると、苦痛になる。
心も身体も、ただ、変化する。
その自然な流れを、「こうなりたい、変わりたい」と無理矢理コントロールすれば、葛藤が起きて、苦しみが生じる。
結局、瞬間瞬間の状態を変えようとすれば、苦しむだけ。
そう、観察を続けていました。
母も実体が無い
そんなある日。
部屋の中で、歩行瞑想をしていました。
すると、
「未来なんて存在しない」が分かった時のように、
「5つのこと」が分かった時のように、
突然、母のことが心に浮かび
「ああ、母もまた、実体はないのだ!」
と、強く実感しました。
私は母のことが好きで、執着している。
こんなに大切な人だと思っているのに、その母には本来、執着すべき実体が無い。
私のこの想いも、実体が無い。
母も、私の想いも、単なる「状態」に過ぎない。
突然、それが分かりました。
「実体が無い」
その事実は、胸を突き刺し、苦しさを感じました。
私はよく、無常や無我を、「シャボン玉」で説明します。
シャボン玉は、膨らんでも変化し、すぐに消えて無くなります。
シャボン玉に、「自我」などありません。
だから、「消えるな」と命令しても、勝手にはじけ飛んでしまいます。
私たち大人は、そのことを理解していますから、シャボン玉に執着することはありません。
すぐに消えてなくなるシャボン玉に、執着する価値など無いと、分かっています。
だから、シャボン玉がはじけ飛んでも、ガッカリすることもないでしょう。
でも、とっても小さな子供は、シャボン玉が無常で、消えてしまうことをキチンと理解できず、執着してしまうもしれない。
そして、執着してしまったら、苦しみが生じるのです。
執着すると、シャボン玉が消えてしまった時に、失望感が生じるでしょう。
母も、私の想いも、このシャボン玉と一緒です。
母も、私の想いも、生じては消える、無常なものです。
そして、「こうなれ、ああなって欲しい」と思っても、コントロールできない無我なものです。
だから、執着したら、苦しむ。
でも、実際には、私は執着している。
嫌だ、母に実体があって欲しい。
私の想いも、実体があって欲しい。
価値あるもので、あって欲しい。
自分が大切に想ってきた人も、想いも、執着すべき何の価値など無いなんて。。。
嫌だ!
「心を成長しさせたい」という想いも実体が無い
それに続くように、
「真理を体得したい。心を成長させたい」
という長年の想いにも、実体が無いことを、瞬時に理解しました。
私の人生は、「真理を体得したい。心を成長させたい」の1点でした。
それ以外に、生きる目的など無かった。
強く強く、執着していたのです。
「私という存在」≒「心を成長させたい」
「生きる」=「成長すること」
になっていたほど、「成長したい」という想いは、
私そのものであり、生きる根源であり、原動力であり、目的だったのです。
でも、その強い想い・意思も、何の実体もない、無常で無我なもの。
執着する価値など無かったのです。
そのことに、突如、気がつきました。
でも、一方で、
「真理を体得したい。心を成長させたい」
その想いに、価値があって欲しかった。
だって、これだけのエネルギーをつぎ込んで、精進してきたのだから。
その想いを成就するために、生きてきたのだから。
でも、その想いに価値が無いのならば、そんな想いに実体が無いのならば、「私」は、一体何のために生きているのだ?
ああ、この期に及んで、まだ、「私」なんていう幻に、しがみついている。
母のことと同じように、実体が無いことへの抵抗が生じました。