60.智慧がつくほど、「愚か」と感じる
さて、「これは涅槃か?」と思いたくなるような静寂のあと、通常状態に戻ると、
今度はまた、絶望がやってきました。
「髪の毛1本、コントロールすることなどできない」
と、強く感じたのです。
私達がコントロールできることなど、何も無い。
どれだけ欲を抱こうと、思い通りにならない。
それを強く強く実感し、また「嫌だ。思い通りになって欲しい」となり、強い強い絶望感が生じました。
読んでいる方も、「しょうこりもなく、また?」と思われるかもしれませんね。
でも、この後も、何度も何度も何度も何度も
「すべてのもに実体などない、いくら欲を抱いても、思い通りにコントロールできない」に直面
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これを、繰り返すのです。
智慧がつくほど、愚かだと感じる
何度も何度も、「真理に直面し、絶望する」。
その過程で、たくさん、智慧が生じました。
面白いことに、智慧が生じれば生じるほど、
「自分は愚かだ」
と感じるのです。
智慧が生じれば、「その分、賢くなったように感じるはず」と思いませんか?
確かに、賢くはなります。
でも、同じだけ、愚かさにも気づくのです。
だって、
「実体などない、よって、何もコントロールすることができない」と分かっていても、
「ああしたい、こうなりたくない」と欲が生じ続けるのですよ。
「自分なんて実体は存在しない。ただ、流れ、状態があるだけ」
と分かっていながら、
「自分はこうなりたい、ああなりたくない」と思ったり、
ポジティブ感情を追いかけ、ネガティブ感情から逃げようとしたり、
「健康でいたい」と肉体に執着する。
つまり、「自分などという実態が無い」と理解しながらも、「自分」という幻に振り回されているのです。
こんなに愚かなことは、ないでしょう。
結局、「分かったつもり」になっているから、こんな愚かな状態なのです。
「ある程度は理解している。でも100%分かっていないから、迷いの中にいる」
ということです。
「分かっていない」ことが分かるから、自分の状態が「愚か」だと分かるわけです。
結局、100%真理を理解しないと、涅槃に至らないと、苦しみが完全に消滅することは、無い。
自分が理解していないことを自覚している。
だから、「愚かだ」と感じる。
昔、かのソクラテスが、「無知の知」という名言を残しましたよね。
「無知の知」とは、「自分は知らない」ということを、自覚することです。
ソクラテスは、
「自分は無知だ。
でも、無知であることを知っている分、
無知であることに気づいてもいない人よりは、賢い。」
と言っています。
まさに、こんな感じですね。
だから、智慧がつけばつくほど、自分の愚かさに気づく。
この頃、自分のこの愚かさにも、絶望感を抱くこともありました。
でも、それらを観察するうちに、
「自分が愚か」という、実体があるわけではない。
「愚かという『状態』があるだけだ」
と、捉えるようになっていき、こだわらなくなっていきましたね。