64章 慈悲の熟成と、「ただ、なすべきことをする日々」
「快」にも「不快」にも惑わされたくなっていったことで、
心は平穏な状態であることが増えていきました。
1日1日、
一昨日より昨日、昨日より今日と、
ちょっとずつ、でも確実に煩悩が小さくなっていくのを感じ、それと比例するように、
1日1日、生きとし生けるものへの慈悲の気持ちが高まっていきました。
飛んでいる鳥や、小さな小さな虫を見ても、
自分と同じ生命で、同じように苦しんでいることが、手に取るように分かります。
以前は、
私とは違う「鳥」や「虫」
という生き物に見えていましたが、
自分と何ら変わない、仲間であると、感じるようになったのです。
面白いもので、人以外の生物に対してより、人に対する慈悲のほうが、熟成が遅かったです。
長年、許せないと思っていた人への慈悲は、他の生物よりも遅れて生じました。
でも、許せないと思っていたあの人も、私と同じ、苦しみを抱える仲間。
テレビで殺人事件の容疑者を観ても、
「苦しんでいるだろうな、辛いのだろうな」と、観るようになりました。
自分と他の生命との垣根が、一日一日、薄れていき、
ただ、関係性の中で自分がある、そのように感じることが増えました。
そして、毎日の日々は、「ただ、なすべきことをする日々」に変わっていきました。
私は、仏教に出会って間もないころ、ブッダに関する、ある逸話を知りました。
遠い遠いある過去世において、スメータという仙人だったブッダ。
「私は未来に一切智慧を得たブッダ(目覚めた者)になるために波羅蜜(覚りを開くための修行)を積み、
他の生命を苦から救うための道を開かなければならない。」
とスメータは強い決意を抱き、その後、無数の過去世でブッダになるための波羅蜜を積む修行を続けた。
そして生まれ変わり、ブッダになった後は、夜も昼も休むことなく、教えと説き続け、そのために多くの身体の苦しみを耐え忍んだ、
この話が事実なのか、後世の作り話なのかはわかりません。
でも当時の私はこの逸話を知り、とてもとても感動し、心動かされ、
「私もこのように生きたい!」
と強く思いました。
「何度生まれ変わっても修行し続け、
いつの日か、ブッダのように、生きとし生けるものを救う者になる!」
そんな強い使命感と共に、私は今世、修行に励んできました。
でも使命感は、この頃、どんどん薄れていきました。
「こうであらねば!」という力が、いつしか抜けていったのです。
変わりに、ただただ「なすべきことをする」日々に変わっていきました。
「私は、まだまだ、智慧が足りない。
煩悩もある。だから修行する」
それが、なすべきこと。
「私よりもまだ智慧が無く、苦しんでいる生命が目の前にいたら、
手を貸す、真理を伝える。
私ができることがあれば、させて頂く」
それが、なすべきこと。
使命ではなく、淡々とした「なすべきこと」に変わったのです。
「ただ、なすべきことをする」
それはとても心が軽く、心地の良いもの。
毎日は、そのように軽いものに変わっていました。
