63.「死」は存在しない

 

様々なトラブルは止みましたが、コロナワクチンによる体調不良は、どんどん進んでいきました。

ワクチンを打って1年後、ある朝、強烈なめまいで倒れ、その後1ヶ月、起き上がれなくなりました。

 

これまでも、めまいを始め、様々な体調不良を経験してきましたが、今回は、今までよりもかなり酷く、

「もしかしたら、死ぬのかな?」

という想いも生じました。

 

「だったら、死ぬ瞬間まで、心と身体の変化を観察し続けてやる!」

と、妙に気合が入って、体調不良に苦しみながらも、いつも以上に熱心に観察しました。

 

2~3週間ほど、寝ながら、身体の苦痛と、心の動きを観察し続けて、智慧が生じました。

 

死というものなど、存在しない。
私達が「死」と呼んでいる現象は、心臓の動きが止まるなどの、単なる肉体の一変化に過ぎない。
「死」と呼んでいる現象が起こった後も、心も身体も変化し続けている。

 

この智慧が生じた後、

・生きたい

・死にたくない

・健康でいたい

といったものへの執着が、今までより大きく減少しました。

 

生も死も、肉体も心も、全ては変化し続けるプロセスでしかない。

死という終わりがあるわけでも、確固たる「肉体」という実体があるわけでもない。

 

ただただ、変化し続ける現象のプロセスがあるだけ。

まるで、川の流れのようです。

プロセスのある時点を、「死」と呼んだり、「生誕」と呼んだりしているに過ぎない。

 

単なるプロセスに執着する愚かさを、まざまざと体感したのです。

 

それまでは、「死ぬときの肉体の苦しさ」が怖かったのですが、その恐怖心も薄らぎました。

 

1ヶ月がたって、起き上がれるようになっても、生活することが困難なほどの体調不良は続いています。

 

でも、「身体を楽にしたい。治したい」

という想いは、以前よりグッと減りました。

 

「健康になったからといって、一時的に快感があるだけ。それだけのこと。
だったら、体調不良でも、健康でも、どっちだって良いや。」

と思うのです。

 

プロセスの過程で、快を感じたり、不快を感じても、それは続きません。

そして、涅槃に至らない限り、望もうと望むまいと、快を感じ、不快を感じるのです。

そこに執着することが、バカらしくなってきたのです。

 

もちろん、今もってまだまだ、生にも死にも健康にも快にも不快にも、執着しています。

でも、以前と比べて、各段にその執着は薄らいできています。

また、一度執着しても、長続きすることもなくなりました。

 

生きることが、よりシンプルになり、より心は楽になっていきました。