40.「認識」は苦しみの元

 

この頃、

「道端に捨ててあるゴミを見続ける」

という瞑想を好んでしていました。

 

道端にあるゴミが目に入ると、「汚い、嫌だ」という気持ちが生じます。

そうしたら、立ち止まって、ひたすらゴミを見続けるのです。

 

すると、「汚いゴミ(ビニール袋)」と認識していたものが、

段々と、「白い物体」と認識が変化し、

 

更には、何も認識せず、

「ただ、視界に何かが映っているだけ。
目の神経が、何かに触れただけ」

という状態に変化します。

 

この瞑想を通して、

 

「○○だ」と、私達が、さも正しいように認識しているけれど、

「認識とは、恣意的で自分勝手な現象だ」

 

ということが、体感できました。

 

どういうことかと言いますと、

例えば、机が視界に入った時に、私達は何の疑問も無く、

「これは机だ」

と認識します。

 

でも、それは、自分勝手な認識が生じただけなのです。

実際には、視神経が刺激を受けたに過ぎません。

 

匂いがしてきて、「カレーの匂いだ」と何の疑いもなく認識するけれど、

実際には、鼻の神経が、何らかの刺激を受けたに過ぎません。

 

「何言っているの?」と思われるかもしれませんが、

これは、とても大切な智慧なのです。

 

なぜなら、どう認識するかによって、その後、感情が生じるからです。

  • 「汚いゴミ」と認識すれば、嫌悪感が生じ
  • 「白い物体」と認識すれば、不苦不楽の感覚が生じ
  • 認識が生じなければ、感情は生じません。

 

 

話している相手の表情が、変化したとしましょう。

  • 「不機嫌になった。私のことが嫌いなのだ」と認識すれば、悲しいという感情が生じ
  • 「疲れた表情をしているな。仕事が忙しいのかな?」と認識すれば、労わりの気持ちが生じ
  • 「面白い顔をしているなw」と認識すれば、楽しいという感情が生じる
  • 相手の表情の変化に気がつかなければ、何の感情も生じない

 

「どう認識するか」によって、私達は、一喜一憂して、苦しんでいるのです。

 

ゴミを見て、認識が変化することを観察する瞑想を通して、

  • 認識は、恣意的で自分勝手な現象
  • 認識によって感情が生じるため、心は苦しむ
  • 認識は変化するもので、固定化されたものでは無い

 

ということを、体感できました。

 

それ以来、何を認識したかに敏感に気づき、

その認識を信じず、放っておくことができるようになりました。

すると、心は安定して、左右されないのですね。

 

これも、大きな智慧でした。