54.三度目の「全ての現象に実体は無い」

 

慈悲の塊のような状態になり、とんでもない幸福感を味わいながら、2週間を過ごしました。

 

そんなある日、近所の小川のほとりで、立つ瞑想をしていた時です。

いつも通り、高い集中力で、深い深い静寂の中に入っていた時、また突然、

「全てものに、実体なんてないんだ!」

を、強く強く実感したのです。

 

1度目より2度目のほうが、2度目より3度目のほうが、強い実感でした。

 

そして、同時にまた、

強い強い絶望感に襲われました。

前回の絶望感より、更に強いものでした。

 

「実体が無いなんて嫌だ。全てのものに価値が無いなんて嫌だ!」

 

あまりにも強い絶望感で、立っている気力も無くなり、その場に座り込んでしまいました。

1時間くらいでしょうか、その場にへたり込んでいましたが、
その日はオンラインで会合の予定があり、家に戻らなくてはなりませんでした。

 

何とか身体を引きずるようにして、帰宅して、
フラフラになりながら、オンラインの会合に参加。

でも、椅子に座るのもやっと。
息も絶え絶えで、声を絞り出すのも精一杯。

会合が終わったと同時に、椅子から崩れ落ち、床に倒れ込みました。

 

そして、一晩寝込み、朝目覚めると。。。

 

 

欲を追い求める人生は終わり

絶望感は跡形もなく消え、すっかり無常・無我を受け入れ、心は静寂になっていました。

2度目に「実体が無い」を体感し、それを受け入れた後は、とてつもない慈悲・幸福感を感じましたが、

今回は、ただただ、静寂でした。

 

そして、このような想いが生じたのです。

 

もう、「あれがしたい、これが嫌だ」という欲を追いかける人生は終わりだ。

これからはもう、自分ことなんて、どうでも良い。

ただ、人や他の生命の幸せ、社会の為に生きる。

 

「何かをしたい。こうあって欲しい。こうなりたくない」

そんな欲が、消え去っていました。

 

そして、心の中で、お葬式をしました。

 

今までの、

欲を追いかける人生、自分のための人生は、終わった

と思ったからです。

 

肉体が尽きるまでの残りの時間は、
他の生命の幸せの為、社会の為だけに生きるのだ。

と、自然に想いが生じるのです。

 

「自分」という実体など無い。
執着すべき「自分」など存在しない。

 

それが分かれば、結局

「こう生きたい、ああ生きたくない」

という想いも生じなくなる。

 

そして、「自分」と「それ以外の生命」という壁も無くなり、
自分と他の生命の区別が無くなる。

守るべき「自己・自我」というものが無くなる。

 

心は穏やかで、自由でした。