65章 苦も楽も幻に過ぎない
「ただ、なすべきことをする日々」
そんな日々を過ごしていたある日、
「未来なんて存在しない」や、
「5つのこと」が分かった時と同様、
突然、また雷が落ちました。
「縁起や業といった、仏教の中心的な教えは、真理そのものではない。
あれは、『自分』という実体を感じてしまう人向けの説明、方便でしかない。」
突然、そのことを電光石火のごとく、理解したのです。
それは、「自分」という実体の外に出た瞬間でした。
つまり、主体そのものが、崩れたのです。
仏教は、苦しみから解放されるための真理を説いている。
でも一方で、主体を持つ人の言葉で書かれている。
だから、教えは「真理そのものではない」。
もちろん、今まで書いてきたように、何度か
「自分という実体は存在しない」という体験をしてきました。
でも、今回の「自分という実体はない」という体感は、
今までとは比べ物にならないほど、深いものでした。
そして、数日後、心が内側に引っ張られるような、勝手に心が内側に向かうような、そんな感覚があり、
その後、「前提が無い状態」になりました。
強い衝撃で、立っていることができなくなり、その場にしゃがみこんでしまいました。
「自分」という実体がない。
それは、「前提が無い状態」です。
そこには、「言葉」も存在しません。
だって、言葉は「前提」があるものですから。
「前提が無い状態」。
それがどういう状態なのか。
本質的には言葉にできませんが、あえて言葉にするなら、
・無
・空
・何も無い
・世界が無い
・極限の静けさ
・ただある
といったところでしょう。
でも、どれも違うのです。
言葉にした瞬間、「前提のない状態」ではなくなってしまうのです。
雷が落ちるまで、私の日々は、
「ただ、なすべきことをする日々」になっていました。
でも、「前提のない状態」では、
「なすべきこと」など、成り立たちません。
そもそも、はなから、何もないのです。
「私」も「日々」も「人生」も、何もかもが成り立たない。
だって、「状態」でしかないのですから。
そして、その状態では「苦」も「楽」も成立しません。
苦も楽も、「自分」という実体が生み出した、幻に過ぎなかったのです。
そう、私はついに、「苦しみ」とは何であるのかを、見切ったのです。
どれだけの長い時間を、
途方もなく長い「苦しみの輪廻という旅」を、
私はこれまで送ってきたのでしょう。
何度も何度も生まれ変わっては、苦しみ続けた輪廻の旅。
ようやく、その旅の終焉を目にしたのです。
それは、壮大な勘違いでした。
「私」という、あるはずがないものが生み出す、あるはずのない「苦しみ」。
私はついに、この勘違いのストーリーを見切ったのです。
私は今、「前提のない状態」でありながらも、今まで通りの「私」もまだいます。
その2つが共存している状態です。
だから、今も普通に生活しています。
今までと同じように思考し、話し、食べ、寝る。
私は将棋が好きなので、ネット将棋をしたり、
メジャーリーグの試合を観ながら、大谷選手を応援したりしています。
でも、苦しみが無い。
厳密に言えば、まだ、苦しみの全てが完全に無くなったわけではない。
まだ、「自分」という幻を感じてはいるから。
でも、苦しみがとても少ない。
なぜなら、「自分」というストーリーに巻き込まれることが無くなったから。
苦しみのストーリーを、見切ったから。
苦しみの輪廻の旅は、まだ完全には終っていません。
だから、まだあと少しだけ、「自分」と一緒に、旅を歩むことになるでしょう。
でも、ゴールはもう目の前。
今は、それが完全に見えている状態です。
