69章 形に執着しない:瞑想で智慧が育つわけではない

 

私は、これまでの歩みを振り返ってみました。

そして、形ある瞑想が、自分にはどれほど向いていなかったのかを、改めてはっきりと自覚しました。

 

仏教と出会ってから15年以上、

「苦しみから解放される唯一の方法は、瞑想をすること」

と思い込み、全然成果も出ないのに、形ある瞑想を必死でやり続けました。

 

でも、振り返ってみると、形ある瞑想で、明確な成果を感じることができたのは、

「流れに入る」という体験をした前後の、ほんの数か月だけでした。

 

そしてその後、瞑想をすることは、ほぼ無くなりました。

体調不良と、心が劇的に変化することで、集中力を保てなくなったからです。

私は、形ある瞑想においては、完全に劣等生です。

とてもとても、努力しました。

でも、「流れに入る」前後の期間、一時的に上手くいっただけで、

大して上達しませんでした。

 

一点集中ができないのです。

「呼吸に意識を向けましょう。歩く足に意識を向けましょう」

と言われても、対象に意識を向け続けることが、私では困難でした。

 

そして、瞑想をしても、全然集中できず、考え事でいっぱいになることも、多々ありました。

だから、もう何年も、形ある瞑想自体をしていません。

でも、苦しみから解放される智慧は生じました。

 

 

智慧とは、瞑想を行うことで生じるものではなく、

「心の仕組み、苦しみの因果を理解できた」

ときに、生じるものです。

 

理解するために、瞑想が重要な手段になる人もいるでしょう。

そのような人のほうが、多いのかもしれません。

 

でも、私は、智慧が生じる手段が、形ある瞑想では無かった。

 

私は、形ある瞑想で身体を観る代わりに、

ほとんどの時間、日常生活の中で、心身、特に心を観察し続けました。

1点集中、ある対象に意識を向け続けるのではなく、

観察対象自体がうつろうことを、観察していたのです。

 

そして、その観察をもとに、思考を使って考察し続けました。

心の動きを、紙に書き出して考察することも、頻繁にありました。

 

形ある瞑想ではなく、

日常生活での心身の観察と考察によって、苦しみの因果を見抜き、智慧が生じたのです。

 

考察が得意な私は、瞑想をすると、かえって思考を無理に抑え込む形となり、

その反動で、思考が暴走していたことにも気づきました。

だから、リトリートのように長期間、思考が静まった状態が続くと、

その後の暴走が手に負えなかったのです。

 

そして、「瞑想ができない、自分はダメだ」と自己否定し、

瞑想をすることで、かえって苦しみを増やしていました。

 

私は、修行の途中で、形ある瞑想を諦めました。

「自分には向いてない、無理だ」と。

 

その選択は、今振り返って、大変適切なものであったと思います。

 

今、日本でも、世界的にも、瞑想はブームになっていると感じます。

きっと、多くの人は、

「瞑想をすれば、心は楽になる」

と思っていることでしょう。

 

でも瞑想は、智慧を育てるための、一つの手段にすぎません。

そして、瞑想に向いていない人もまた、います。

人には、向き不向き、得意不得意があります。

ブッダは、それを分かっていて、私のようなタイプの修行者には、無理に瞑想をさせなかったようです。

 

重要なことは、

「何にも依らない(依存、執着しない)」

ことです。

 

どちら側にも執着しない=「中道」です。

これが、苦しみから解放される道です。

 

ですから、瞑想がご自身に合っていれば、もちろん続ければいいし、

合っていなければ、違う方法を選んで良いのです。

 

「いつもは瞑想が合っているんだけれど、今日は合っていないな」

そんな時は、無理にやらないことです。

 

ですから、瞑想が合っている方も、

「瞑想こそが、苦しみから解放される唯一の方法だ」

などと、形ある瞑想に依らないで下さいね。