なぜ心を観察するのか⑥「生きるとは何か」
身体も心も、一瞬たりとも止まっていません。
感覚が生じ続け、動き続けています。
これを輪廻といいます。
私たちは、この感覚と、その感覚から生じる欲に巻き込まれているだけです。
では、
「生きるとは何か。」
生きるとは、このことです。
感覚が生じる。
感覚によって欲が生じる。
欲によって行動する。
そして、また新たな感覚が生じる。
その感覚から、また欲が生じる。
これだけです。
これ以上でも、これ以下でもありません。
生きるとは、この繰り返しです。
だからこそブッダは、
「輪廻から解脱しなさい。」
と説かれました。
つまり、
生きるという、このループを卒業しなさい。
ということです。
生きることに、価値もなければ素晴らしさもありません。
苦しみを嫌って逃げ回り、快楽を追い求め続ける。
生きるとは、ただそれだけのことです。
だからブッダは、
「もう、その生き方はやめなさい。」
「そのループから卒業しなさい。」
と説かれました。
仏教では、
この輪廻を、何千億回、何兆回と、過去世から繰り返してきたと考えます。
私たちは過去世でも、
「美味しいものを食べたから、もっと食べたい。」
と思い、
「無視されて悲しいから、人に合わせよう。」
と思い、
「座っていてお尻が痛いから立ち上がろう。」
ということを繰り返してきました。
前世でも、その前の人生でも、そのまた前でも、ずっと同じことを繰り返してきたということです。
では、この先も、それを繰り返し続けるのでしょうか。
ブッダは、
「もう十分やったでしょう。」
と言われます。
「十分繰り返したのだから、この苦しみの仕組みから抜け出しなさい。」
これが「解脱」です。
私たちは何に悩んでいるのか
私たちは何に悩んでいるのでしょうか。
人間関係や仕事、お金など、様々な悩みがあります。
でも私たちが悩んでいるのは、その悩みの「中身」です。
例えば、
「どうして、あの人はあんなひどいことを言うのだろう。」
「どうして、あの時あんなことになってしまったのだろう。」
「これから生活をどうしよう。」
悩んでいる時、私たちの頭の中は、このような言葉やストーリーでいっぱいになります。
つまり、人間関係や出来事など、その「中身」とかしようとしているのです。
でも、ここまで見てきたように、心の中で実際に起きていることは違います。
例えば、人からひどいことを言われたり、無視されたりすると、
「悲しい」
「怒り」
といった不快な感覚が生じます。
そして、
「この不快を感じたくない。」
という渇愛が生じます。
さらに、それが思い通りにならないために苦しみます。
つまり、
真理が分かっていない「無明」
不快はいらない、快が欲しいという「渇愛」
そこに強くしがみつく「執着」
この3つによって、苦しみが生じているのです。
悩みの中身が問題ではないのです。
つまり、
「誰があんなことを言った。」
「こんな出来事があった。」
それが苦しみの原因ではありません。
私たちの心の中に、
* 無明
* 渇愛
* 執着
この三つがあるから苦しんでいるだけです。
ここが、一般的なカウンセリングとの大きな違いです。
一般的なカウンセリングでは、「中身」を扱います。
例えば、
「なぜ親はそうだったのか。」
「そう言われた時、どう返せばよかったのか。」
というように、中身を何とかしようとします。
でも、仏教では、
苦しみの中身は本質ではありません。
リトリート(瞑想合宿)でも、指導者と一対一で話す時間があります。
その時も、
「昔、親にこんなことをされた。」
「今、こういうことで悩んでいる。」
という中身は、本筋としてはほとんど扱いません。
もちろん、補足として聞くことはあります。
でも、本当に確認するのはそこではありません。
確認するのは、
「その時に生じた記憶や感情に、きちんと気づけていましたか。」
「その現象が生まれ、変化し、消えていく様子を観察できていましたか。」
ということだけです。
なぜなら、中身は何であっても、心の中で起きている仕組みは同じだからです。
どんな悩みであっても、
そこには
「無明・渇愛・執着」
があるだけなのです。
