12.当時の私にとって「生きる」とは

 

仏教に出会ったばかりの当時、

私が仏教の教えで理解していたことは、非常に初歩的なものです。

 

悩み・苦しみは、思考によって生じる。

だから、瞑想で訓練することにより、

思考に巻き込まれず、「今ここ」に気づいていられれば、悩み・苦しみは生まれない

 

 

最近では、「マインドフルネス」という言葉をご存知の方が増えていますが、

一般的に「マインドフルネス」というと、

上記のような概念をイメージされる方が多いかと思います。

 

当初は、私も、このような簡単な概念で、仏教を理解していました。

 

今はもちろん、もっともっと、深淵な内容も理解できるようになっています。

 

でも、当時は、これが分かっていただけで十分でした。

 

そして、

心を成長させて、真理を体得すること

 

これが、私の生きる目的になりました。

これ以外のことには、本質的に、興味が無くなりました。

 

心を成長させ、真理を体得するとは、

イコール、

苦しみから解放されることですが、

 

私にとっては、「苦しみから解放される」ということに、

正直、本質的にはあまり興味がありませんでした。

 

 

「苦しみから解放されたい」ということよりも、

 

成長したい
真理を知りたい
突き詰めたい
体得したい

 

そんな想いでいっぱいでした。

 

 

真理を完全に体得することを、仏教では

究極の悟り=涅槃(ねはん)

と呼びます。

 

一切の苦しみから、解放された境地のことです。

 

心を成長させるために、

真理を体得するために、

私は生きている

それ以外に、生きる目的など、あるはずがない

 

こんな強い想いが、心の奥底から湧いてきました。

 

ちなみに、仏教における「悟り」には4つの段階があり、

涅槃は「4番目の悟り」と位置付けられています。

 

私は、「今世で涅槃に至れる」などとは、もちろん、思ってもおらず、

「涅槃はもとより、第一番目の悟りにも、当然ながら、今世で行きつはずがない」

と、考えていました。

 

第一番目の悟りに、ほんの少しでも近づけるように、

精一杯、精進することが、今世の目標であり、

 

何千年・何万年かかろうが、何十回・何百回、生まれ変わろうが、

涅槃に至るまで、精進し続ける

 

そのために、私は生きている!!

 

 

それはそれは、とんでもなく強く、揺るぎない想いでした。

どうしてそのような強固な決意・想いが生じるのか、当時はわかっていませんでしたが、

とにかく、仏教と出会ったと同時に、その強い強い想いは、湧き上した。

 

 

そして、その想いと同時に、こんな疑問も湧いてきました。

「なぜ、私は出家していないのだ?」

 

仏教との出会ったことにより、

出家していることが当たり前で、
していないことが不思議な・おかしな状態に感じるようになったのです。

 

「おかしいなあ、何で私は出家していないのだろう?」

と不思議な気持ちで一杯。

 

 

生きる目的が真理を体得することなら、

出家以外の生き方に、本質的に興味を持てるわけが無く、

 

「どうしたら出家できるのだろう?」

と出家生活を模索するようにもなります。