48章 再び「全ての現象に実体は無い」を体感

 

流れに入って約3週間。

心の移り変わりを、ただ、観察していました。

 

・禅定のような、深い深い静けさ、心の安定さを味わっても、また心は移り変わる。

・「瞑想に飽きたなあ」という感覚が生じても、観察していれば、その飽きた感覚は消え去る。

・嫌だという怒りの感情が、生じても消えて、心は穏やかになり

・嬉しさや喜びの感情も、そのうち味気ない感覚に変化する。

・肉体も、歩行瞑想が疲れて座ると、楽な感覚が生じるけれど、座り続けると、足やお尻が痛くなって、また身体を動かしたくなる。

・身体を横たえると楽になるが、寝続けると、苦痛になる。

 

心も身体も、ただ、変化する。

その自然な流れを、「こうなりたい、変わりたい」と無理矢理コントロールすれば、葛藤が起きて、苦しみが生じる。

 

結局、瞬間瞬間の状態を変えようとすれば、苦しむだけ。

そう、観察を続けていました。

 

 

そんなある日。

部屋の中で、歩行瞑想をしていました。

すると、

 

・「未来なんて存在しない」が分かった時のように、

・「5つのこと」が分かった時のように、

 

突然、母のことが心に浮かび

「ああ、母もまた、実体はないのだ!」

と、強く強く実感しました。

 

私は母のことが好きで、執着している。

こんなに大切な人だと思っているのに、その母には本来、執着すべき実体が無い。

 

私のこの想いも、実体が無い。

母も、私の想いも、単なる「状態」に過ぎない。

突然、それが分かりました。

 

「実体が無い」。

その事実は、胸を突き刺し、苦しさを感じました。

 

 

私はよく、無常や無我を、「シャボン玉」で説明します。

 

シャボン玉は、膨らんでも変化し、すぐに消えて無くなります。

シャボン玉に、「自我」などありません。

だから、「消えるな」と命令しても、勝手にはじけ飛んでしまいます。

 

私たち大人は、そのことを理解していますから、シャボン玉に執着することはありません。

すぐに消えてなくなるシャボン玉に、執着する価値など無いと、分かっています。

シャボン玉がはじけ飛んでも、ガッカリすることもないでしょう。

 

でも、とっても小さな子供は、シャボン玉が無常で、消えてしまうことをキチンと理解できず、執着してしまうもしれない。

そして、執着してしまったら、苦しみが生じるのです。

執着すると、シャボン玉が消えてしまった時に、失望感が生じるでしょう。

 

 

母も、私の想いも、このシャボン玉と一緒です。

 

母も、私の想いも、生じては消える、無常なものです。

そして、「こうなれ、ああなって欲しい」と思っても、コントロールできない無我なものです。

だから、執着したら、苦しむ。

でも、実際には、私は執着している。

 

「嫌だ、母に実体があって欲しい。

私の想いも、実体があって欲しい。

価値あるもので、あって欲しい。

自分が大切に想ってきた人も、想いも、執着すべき価値など無いなんて。。。

嫌だ!!」

 

 

それに続くように、

「真理を体得したい。心を成長させたい」

という長年の想いにも、実体が無いことを、瞬時に理解しました。

 

私の人生は、

「真理を体得したい。心を成長させたい」の1点でした。

 

それ以外に、生きる目的など無かった。

強く強く、執着していたのです。

 

・「私という存在」≒「心を成長させたい」

・「生きる」=「成長すること」

 

になっていたほど、「成長したい」という想いは、

私そのものであり、生きる根源であり、原動力であり、目的だったのです。

 

でも、その強い想い・意思も、何の実体もない、無常で無我なもの。

執着する価値など無かったのです。

 

そのことに、突如、気がつきました。

 

でも、一方で、

「真理を体得したい。心を成長させたい」

その想いに、価値があって欲しかった。

 

だって、これだけのエネルギーをつぎ込んで、精進してきたのだから。

その想いを成就するために、生きてきたのだから。

 

でも、その想いに価値が無いのならば、

そんな想いに実体が無いのならば、

「私」は、一体何のために生きているのだ?

 

 

ああ、この期に及んで、まだ、「私」なんていう幻に、しがみついている。

母のことと同じように、実体が無いことへの抵抗が生じました。