47章 真理は、本の中には無い

 

この頃は、瞑想と並行して、

仏法の学術的なことを学ぶことにも、熱中していました。

 

きっかけは、流れに入った後に、

タイで出家された日本人の比丘(僧侶)からアドバイス頂いた

「縁起を学ぶと良いよ」

という言葉です。

 

「縁起」とは、「十二縁起」とも言い、仏教では、核となる真理の教えの1つです。

 

流れに入るまで、私は実践することしか興味がありませんでした。

仏教の学術的なことに全く関心が無く、学術的な教えを、ほとんど知らなかったのです。

 

十二縁起という言葉も、辛うじて耳にしたことがあるくらい。

内容は、全く知りませんでした。

 

そこで、キチンと学術的なことも学んでみようと思ったのです。

タイの学僧として知名度の高い、ポー・オー・パユットー師の

「仏法」

という本を中心に、学びました。

 

 

仏法を読み始めて、ビックリしました!

今まで、観察の実践を通して、体感的に理解したことが、全て言語化されていたからです。

 

「ああ、あの体験は、そういうことだったのか」

と納得することが多かったです。

 

そして、十二縁起など、私がまだ深く理解していない項目も、もちろん記載がありました。

 

面白いことに、本を読んだだけでは理解できなくても、その後に瞑想をすると、スッと理解できるのです。

 

また、この頃は、瞑想のたびに新たな理解・智慧が生じたのですが、

瞑想後に本を読むと、自分の得た智慧が、言語化されているので、非常に理解が深まりました。

 

面白くて面白くて、

瞑想 ⇒ 本を読む ⇒ 瞑想 ⇒ 本を読む ⇒ ・・・

を繰り返しました。

 

半年くらいの間に、この「仏法」を、10回以上は読んだと思います。

特に興味のある個所は、何十回も読みました。

読むたびに、新たな理解があり、智慧が深まりました。

 

 

学術的なことにもハマった半年間でしたが、半年たった時、私は本を閉じました。

なぜなら、本の中には真理が無いことが、分かったからです。

 

・本に書かれていることは、あくまで、「知識、情報」に過ぎない。

・真理は、現象の中にしかない。

・ただただ、現象を、心を、観察する以外に、真理を理解することはできない。

・どれだけ本を読もうが、知識を蓄えようが、悟ることも、心を楽にすることもできない。

・心を楽にするには、真理を体得するには、実践する以外にない。

 

そのことが、よくよく、分かったのです。

 

学術的なことを、軽視する訳ではないです。

実践の補助として、また実践するための動機付けとして、利用するなら、有益です。

でも、どれだけ知識を得ても、ただ、知識が増えるだけです。

 

心は楽になりません。

心は清らかになりません。

心は穏やかになりません。

もちろん、悟りも得られません。

 

学術的なことを学ぶには、そのことを理解した上で、取り組む必要があります。

 

 

本を閉じた後、2年間、「仏法」を開くことは、ほとんどありませんでした。

その間、私が仏教関連でたまに読むのは、

絶対的師匠、アチャン・チャー師の説法をまとめた本だけでした。

 

アチャン・チャー師の言葉は、全てが師の体験によって得られた内容です。

学術的なものではありません。

だからこそ、真実味が違うのです。

 

ふと、怠けなくなる時など、精進の動機付けのために、アチャン・チャー師の本のみ、時々読んでいました。

それ以外の本は、私にとって不要になったのです。

 

でも、2年がたち、人に真理を伝えるようになった時に、再び、「仏法」を学び直しました。

人に伝える時に、自分が得た智慧を言語化する際に、役立ったのです。

 

体感したことを言語化することは、簡単なことではありません。

今、真理を人に伝える時に、「仏法」をはじめ、学術的な本も、参考にさせて頂いています。