62章 怒りの激減と、「死は存在しない」という智慧
様々なトラブルは止みましたが、
コロナワクチンによる体調不良は、どんどん進んでいきました。
ワクチンを打って1年後、
ある朝、強烈なめまいで倒れ、その後、起き上がれなくなりました。
そして倒れたと同時に、私はいかに自分を責め続けているかに気が付いたのです。
生活するために、家事をしなくてはならない、働いて稼がなくてはいけない。
その為に、いつも体調不良の自分にむかって、
「このポンコツな身体」
「働かざる者食うべからず」
といった否定的な言葉を投げかけ、何とか無理やり身体を動かし続けました。
しかし、動けなくなったことで、
「今まで、体調不良の自分をどれだけ罵倒し、否定し続けていたのか」
に気づいたのです。
自分自身に申し訳ない想いで、そこから3週間は号泣し続けました。
「酷い扱いをして、本当に申し訳ない。長い間、苦しめてゴメンね」と。
あまりの号泣で、呼吸ができなくなるほど、私は泣き続けました。
3週間泣き続け、膿を出し切ると、それ以来、自分を責める想いが生じることが、大きく減りました。
それと同時に、「家事をしなくては、仕事をしなければ、家事をしなければ」という強迫的な想いもかなり小さくなりました。
要するに、「こういう生活をしたい」という欲と、それが叶わない為に自分に向けていた怒りが、激減したのです。
自分に向けていた強烈な怒りが激減したことで、外側への怒りも今まで以上に小さくなりました。
また、自己否定・自責の念に向き合うと同時に、私は「死」とも向き合いました。
これまでも、めまいを始め、様々な体調不良を経験してきましたが、この時の体調不良はそれまでよりもかなり酷く、
「もしかしたら、死ぬのかな?」
という想いが生じました。
「だったら、死ぬ瞬間まで、心と身体の変化を観察し続けてやる!」
と、妙に気合が入って、体調不良に苦しみながらも、いつも以上に熱心に観察しました。
3週間ほど号泣しながら寝込む中、身体の苦痛と、心の動きも観察し続けた結果、智慧が生じました。
死というものなど、存在しない。
私達が「死」と呼んでいる現象は、
心臓の動きが止まるなどの、単なる肉体の一変化に過ぎない。
「死」と呼んでいる現象が起こった後も、心も身体も変化し続けていると。
この智慧が生じた後、
・肉体的苦痛を感じたくない
・健康でいたい
といったものへの執着も、今までより大きく減少しました。
生も死も、肉体も心も、全ては変化し続けるプロセスでしかない。
死という終わりがあるわけでも、確固たる「肉体」という実体があるわけでもない。
ただただ、変化し続ける現象のプロセスがあるだけ。
まるで、川の流れのようです。
プロセスのある時点を、「死」と呼んだり、「生誕」と呼んだりしているに過ぎない。
単なるプロセスに執着する愚かさを、まざまざと体感したのです。
それまでは、「死ぬときの肉体の苦しさ」が怖かったのですが、その恐怖心も薄らぎました。
1ヶ月がたって、起き上がれるようになっても、生活することが困難なほどの体調不良は続きました。
でも、「身体を楽にしたい。治したい」
という想いは、以前よりグッと減りました。
「健康になったからといって、一時的に快感があるだけ。
それだけのこと。
だったら、体調不良でも、健康でも、どっちだって良いや。」
と思ったのです。
プロセスの過程で、快を感じたり、不快を感じても、それは続きません。
そして、望もうと望むまいと、快を感じ、不快を感じるのです。
そこに執着することが、バカらしくなった。
だから、自分を責める気持ちも、当然、生じにくくなりました。
もちろん、まだまだ、
健康にも、快にも、不快にも、執着しています。
でも、以前と比べて、各段にその執着は薄らいできています。
また、一度執着しても、長続きすることもなくなりました。
生きることが、よりシンプルになり、より心は楽になっていきました。
