仏教、瞑想にご興味のある方と、ご縁が出来ますこと、嬉しく思います。

  • 楽になりたい
  • 苦しみから解放されたい
  • 楽になる道を知りたい
  • 仏教、仏法を学びたい

と真摯に願われる方へ、参考になるよう、私の体験談を詳細にお伝えしています。

 

私がお伝えする「楽になる方法」とは?

私がセッション(カウンセリング・お悩み相談)や瞑想会等を通じてお伝えすることは、楽になる方法です。
言い換えると、

「苦しみから解放される真理」

です。

そして、この真理は、人から教えられたり、本などで学んだものではありません。

修行・精進を通して、

自ら体感し、会得した「智慧」

です。

そもそも仏教とは、ブッダ自身が、
「苦しみから解放される真理」を体得した後、
それを人々に説いてまわったものを、ブッダの死後、弟子たちが文章にまとめたものです。

ですから、ブッダが生前、説いた教えは、
今も書物で読むことができますし、
僧侶等から説法として拝聴することもできます。

 

でも、いくら本を読んでも、説法を聴いても、真理は身につきません。
智慧は生じず、ただ知識が増えるだけです。

智慧とは、知識や単なる知恵とは異なり、「体感・体験」して初めて生じるものです。

 

「智慧」が生じなければ、楽にならない

私のところに悩み相談にいらっしゃる方の多くは、本やネットで、仏教や心理学等について勉強されています。

講座等で熱心に学ばれたり、カウンセラーの勉強をされた方も一定数いらっしゃいます。

更に、瞑想を何年も実践されている方も、当然、少なくありません。

それなのに、ご相談者さんは、大して楽になっていないのです。
何年も学んだり、瞑想をしていても、結局、苦しいままなのです。

これは、「智慧」が生じていないからです。

勉強を、瞑想を何年実践しようが、智慧が生じなければ、真理は体得できず、苦しみから解放されません。

 

「智慧」を生じさせる瞑想

仏教の瞑想には、次の2種類あります。
それぞれ、どのような目的のために行う瞑想か、解説しますね。

①サマタ瞑想

②ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)

 

①サマタ瞑想

サマタ瞑想は、日本語では「止」と書きます。

「1点に集中する(止める)ことで、心を落ち着かせる」

ことを目的とした、精神統一系の瞑想方法です。

 

例えば、座禅を組み、鼻先に意識を向け、鼻を出入りする息の感覚に、集中し続ける。

思考が出てこない、心が揺れ動かない所まで、集中力を高める、といったような瞑想です。

 

この瞑想方法に熟練していくと、

「禅定(サマーディ)」

という、特殊な精神状態に入ることができます。

幸福感、静寂さなどを感じ、思考が生じなくなります。

サマタ瞑想に励んでいらっしゃる方には、

このような禅定の状態にハマり込んでしまう方も、いらっしゃるようです。

 

ただし、こういった状態は、あくまで禅定に入っている時だけです。

禅定から出ると、瞑想を止めると、また思考が出てきます。

 

ですので、

サマタ瞑想で、ある程度、心が静まったら、

「ヴィパッサナー瞑想」を行いなさい。そうでないと、苦しみからは解放されないよ」

と、ブッダは言っておられます。

サマタ瞑想をいくら実践しても、智慧は生じず、真理は分からず、心は楽にならないのです。

 

②ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)

ヴィパッサナー瞑想は、日本語で「観」と書きます。

サマタ瞑想の「止」と合わせて、

「止観(しかん)」

と呼ばれています。

 

ヴィパッサナー瞑想は、1960年代から、

「マインドフルネス瞑想」

という呼び名で、世界中に広まりました。

 

マインドフルネスと言う言葉は、
聞かれたことが有る方も、多いのではないでしょうか。

 

この瞑想は、

「今この瞬間」に起こっている現実(現象)を、あるがままに気づき、観察する方法」です。

 

心を落ち着かせたり、思考をコントロールすることを、目的としたものではありません。

 

「智慧を育てる」

ことを目的としています。

智慧とは、「真理」を理解することです。

 

・苦しみとは何か
・どうしたら苦しみから解放されるのか

 

瞑想することで上記の答えが智慧として生じ、

真理を理解できるようになっていきます。

そして、苦しみから解放される、という訳です。

 

例えば、サマタ瞑想のところでも書いたように、

座禅をして、呼吸に意識を向ける瞑想をしたとします。

 

瞑想中、断続的に、思考が生じてくることでしょう。

はたまた、足が痛くなってくるかもしれません。

周囲で誰かが騒いでいて、心が乱れ、怒りが生じるかもしれません。

 

そういったあらゆる現実(現象)を、ただ、観察するのです。

 

真理とは何か?

瞑想中に生じてきた思考を、痛みを、怒りを、

ただただ観察する。

 

そうすると、それらの現象は、消えていくことがわかります。

 

瞬間瞬間、私達は様々な刺激に反応し、思考や、感情や、身体の感覚が生じます。

 

でも、全て、変化し、消えていくのです。

 

握りしめなければ

執着しなければ

追いかけなければ

欲しがらなければ

嫌がらなければ

 

全ては、消え去ります。

 

あらゆる物事は、瞬間瞬間、生滅変化している。

 

これを仏教では

「無常」

と呼びます。

 

あらゆるものは、変化していますから、

何が起ころうが、放っておけば、

心は静まっていきます。

 

逆に、変化し、消えてしまうものに執着すると、

苦しみが生まれます。

 

座禅をしていて、足が痛くなった。

 

その事実をただ観察するのではなく、

「あ~、足が痛い、嫌だなあ。早く瞑想止めたいなあ」

なんて現実に抵抗すると、心に苦しみが生じてくるのです。

 

そして、全てのものが無常であるからこそ、

「これ」

といった、確固たるものは、存在していないことになります。

 

痛みに対して、

「痛みよ、止まってくれ、どこかに行ってくれ」

なんて命令できないですよね?

なぜなら、

「痛み」

という実体が無いからです。

 

痛みは、ただただ、消えて無くなる「いち感覚」に過ぎません。

命令したくても、命令できる相手(実体)がいないのです。

 

感情も思考も一緒です。

 

「怒りや、悲しみや、寂しといった、ネガティブ感情は嫌だ~

 出てこないでくれ~」

 

と思ったところで、

 

「ゴチャゴチャ考えるのは嫌だから、思考よ静まれ!」

 

と思ったところで、意思とは裏腹に、勝手に生じてきます。

 

なぜなら、命令できる相手、実体が無いからです。

 

全ての現象が無常なのだから、全ての現象には実体がありません。

 

これを、仏教では

「無我」

と呼びます。

 

●全ての現象は無常

●無常なものに執着すると苦しみが生じる

●全ての現象は無常なのだから、実体が無い(無我)

 

この「無常・苦・無我」を、「真理」と呼びます。

 

文章で説明すると、難しくて理解できないかもしれません。

でも、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)を続けることで、

この真理が理解できるようになっていきます。

 

そうすると、

「何かに執着することが苦しみだ」

と体感できます。

 

自ずと、あるがまま、現実を受けとめられるようになり、

苦しみから解放されていきます。

 

智慧が生じ、真理を知る過程

上記のように、智慧が生じ、真理を知ることで、苦しみから解放されます。

今回、その過程・体験を、赤裸々にお伝えしたいしたいと思います。

私が仏教と出会うまでの苦しみ、
また仏教と出会い、瞑想を始めたことで、どのように智慧が生じ、苦しみが無くなっていったのか、ご理解頂けるよう、ブログ形式で詳しく記しました。

皆さまの苦しみが減り、智慧が生じるきっかけになりましたら、嬉しく思います。

下記よりお読みください。

瞑想実践禄「心が解放される道」

 

ー索引ー

65.最後に

  ブッダの逸話の中で、とても感銘を受けた話があります。   ブッダは過去世にお…